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吉原の歴史を紐解く①〜昭和散歩道〜 [寫眞歳時記]

赤線時代の名残を探しに浅草・吉原に潜入なのだ。

少々緊張する。

以前紹介した「鳩の街」と違い、此処吉原は赤線廃止後も国内唯一の風俗街として今も妖しげな光を放ち続けているのだ。徘徊カメラ爺いが客引きの兄ちゃんに絡まれたら面倒臭いなと思いつつ、真っ昼間の「原色の街」を散策する。

江戸幕府公認の遊廓街は現在の人形町地区で1617年に始まり「吉原」と呼ばれた。私の勤務先でもある人形町が、以前は「芳町」と呼ばれた花街だったのは、その名残のようである。1658年、幕府は吉原移転を実施する。浅草寺裏の広大な田圃を埋め立て三町四方の新遊廓街が完成したのだ。現在の台東区千束に位置した「新吉原」は、歴史ドラマや歌舞伎・落語の題材でも扱われる通り、江戸唯一の遊廓として永らく栄華を極めて行く事になる。

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吉原大門交差点のガソリンスタンドの脇に『見返り柳』がひっそりと佇む。この土手通りは車で通る事も多いが、今まで全く気づかなかった。遊廓帰りの客誰しもが、後ろ髪をひかれ思わず振り返ってしまったという逸話が残る。吉原の出入口は、この大門の一ヶ所しか存在せず、遊廓全体は四方を『お歯黒ドブ』と呼ばれる堀が巡らされていた。遊女の逃亡防止が目的だったと云われている。当然、現在は埋め立てられているが、僅かに堀の痕跡らしき物が見られる。

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遊廓側の敷地が平地より高めに埋め立てられているのが分かる。遊女達の使用したお歯黒の汁を捨てていた事から、この名称になった。
浅草地区は関東大震災と東京大空襲により、街のほぼ全てが灰燼に帰した。吉原でも、往時を彷彿させる戦前の建物は存在しない。
 
大正時代の吉原大門
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女房が嵌っている「鬼滅の刃」の「遊廓編」は吉原が舞台だ。このアニメは時代考証も割としっかりしており、震災前の華やかな吉原を再現している。(大門の天女像も素敵だ)

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明治期に吉原一格式の高いと言われた大見世「角海老楼」〜聳え立つ時計台は吉原のシンボル的存在だったらしい。この時計台は明治44年の吉原大火で消失した。

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特殊浴場の形態で現存している「角海老本店」。宝石業メインの角海老グループが経営しており、当時の大見世との関連は無いらしいが、堂々たる店構えだ。屋号だけでも往時を忍ばせる店舗は此処しか存在しないようだ。

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吉原には廓の守護神として5つの稲荷社が存在したと云う。明治14年に、その5つの社を合祀して「吉原神社」と名付けられた。昭和9年に現在地に移築・造営され、境内には吉原入口に在った「逢初桜(あいぞめざくら)」が植樹されている。遊客の出逢いを叶える桜の謂れで、昔の江戸っ子は遊び方ひとつにも洒落心が有ると感じる。

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此処から1分歩くと吉原神社の奥院である「吉原弁財天元宮」に着く。幾度も大火に見舞われた吉原だが、関東大震災では多くの犠牲者を出す事になる。地震により出火した遊廓街は一瞬のうちに火の海と化し、一ヶ所しかない出口の大門が人だかりとなった。逃げ惑う遊女達は廓北側の弁天池に飛び込むも、500人近くが溺死した。後に池は埋め立てられ、犠牲者の供養の為に此の地に観音像が建立されたのが謂れだ。

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此方の境内には吉原の歴史を記した資料が掲示されている。もちろん震災時の悲劇も詳細に。そして多くの妓楼が消失した大惨事を乗り越え、その後も戦時中に至るまで吉原は繁栄を続けていく。だが昭和20年3月11日の東京大空襲にて吉原は灰燼に帰し、敗戦と共に政府公認の公娼制度は廃止され、遊廓としての使命も終わる事となるのだったが...
 
静かに観音像に手を合わせる。
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戦後、焼け野原となった同地に飲食店やカフェの看板で風俗営業許可を取り、以前と同様の売春を糧とする店が乱立して行く事となる。こうして非公認ながらも行政が黙認する地域を、いつしか『赤線地帯』と呼ぶのであった。

次回は、今も僅かに残る赤線時代の遺構のレポートを。

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