吉原の歴史を紐解く②〜昭和散歩道〜 [寫眞歳時記]
昭和21年、GHQは民主化政策の一環として公娼制度を廃止する。焼け野原の吉原遊郭跡地では、風俗営業許可を取り飲食店の名目で営業する私娼宿が増える。娼妓は女給と名を変え、それらの店舗は『カフェー』と呼ばれた。そして昭和33年の売春防止法施行以後、多くのカフェーはアパートやバーに転用されていく...
ソープランドが立ち並ぶ華やかな通りを避けて一本裏通りに入ると、戦後の咽せ返るような雑踏の残り香が僅かに感じられる。古い木造建築の家屋と共にカフェーに会えるのだ。カフェー建築の外観の特色は、鮮やかなタイル張りの壁や曲線を多用した柱・庇だ。客同士がかち合わぬよう出入口が複数設置されているのも多い。一般の飲食店と一目で区別できるように敢えて派手な装飾が施され、60年以上経過した今でも垢抜けた雰囲気で何となく感じ取れる建物もあれば、改修されて判別不能なものも在る。ほとんどのカフェー建築物は老朽化により取り壊されており、現存するものの寿命も長くないと思われる。ソープランドの送迎で高級車が行き交う中、風俗街の裏通りを全く別の目的でカメラ爺いは徘徊する...
取り壊し間近の廃墟
素敵なアール形状
何年前の羽子板だろう?
アパートに転用したが空き家が多いような...
今回の探索で一番琴線に触れた建物
現居住者の方が世話する鉢植えに心が和む
隣の家屋が取り壊され旧入口の鮮やかな壁画が露わに
著名な建築家や名工が手がけた建築物ではない為、芸術的価値も無く保存の必要性が議論されることも無い建物たち。血と汗と色と欲そして涙に塗れた香りを残す赤線跡は、決して忘れてはならない貧しくも逞しく生きた戦後日本人の足跡でもある。
赤線廃止以後、カフェーが消えた同地は特殊浴場という形態で風俗営業が継続されて行く。行政の本音と建前の最たる現象だ。トルコ風呂からソープランドと名称を変えた特殊浴場は、風営法や条例の規制により新規出店・新築が出来ないとされている。あと50年も経過すれば、これらの浴場も廃墟となり、平成・令和時代の遺跡になっていくのだろうか。お風呂違いだが、祖父が銭湯を営んでいた私は漠然とそんな事を考たりするのである。
最後に少し離れた南千住に在る「浄閑寺」に寄ってみる。安政の大地震(1855年)で多くの吉原の遊女が亡くなった折に、この寺に投げ込んで葬ったと伝えられ、別名『投げ込み寺』と呼ばれた。夕刻過ぎで残念ながら閉門していたが、山門脇のお地蔵さまにそっと手を合わせて来た。
私の街にもそういう一角がありました。子供心に近付いてはいけない場所と思っていた記憶があります。その思い出の場所は此方にはほとんどないです。
by JUNKO (2022-09-16 17:10)
どんどんマンションが建ってきて
これからさらに無くなっていくのでしょうね
最後の電話ボックスも見なくなりました
by kenji-s (2022-09-19 17:39)
> JUNKO 様
このような過去の猥雑な遺構も間違いなく我々人間の歩んできた足跡です。消失しても心に中に刻んでいこうと思います。
by つむじかぜ (2022-09-19 18:35)
> kenji-s 様
どうせならもっと心に響く個性的なマンションにして欲しいですね。
使わなくなったテレカの山はどうしようか悩みます。
by つむじかぜ (2022-09-19 18:38)