晩秋の会津を歩く① [寫眞歳時記]
仕事が少し落ち着いたので、リフレッシュを兼ねて久しぶりに奥様と一泊旅行に出た。
今回は亭主のわがままで、福島県会津地方に赴いた。小生の敬愛する偉人の墓参りと猪苗代湖畔に建つ古い洋館が目的なのだ。東京から車で片道約3時間強という旅程で、紅葉も終わり曇り続きの天候だったが、のんびり充実した時間を過ごせた。
◯土津(はにつ)神社・・・猪苗代湖の北側に鎮座する保科正之を祀ったお社である。歴史の教科書や大河ドラマに取り上げられる事は無いが、小生はこの人物が大好きなのだ。
『保科正之』・・・3代将軍・徳川家光の腹違いの弟であり、初代会津藩藩主。家光亡き後、若年の4代綱吉の補佐役としても活躍した。2代秀忠が大奥の女中に生ませた「ご落胤」であり幕府内でもごく一部の者しか知らない秘密であった。日陰の身として幼少期を過ごし、高遠藩に養子に出され、「保科」の性を授かる。その後、将軍に就いた家光は初めて弟の存在を知り、徐々に彼を取り立てて行く。48歳で早死にした家光はいまわの際に正之を呼び、息子・家綱のいく末を託したと云われている。
奥の院に正之の墳墓が在る
幕閣となった正之は、まだ軍事政権の色合いの濃かった江戸幕府を近代的な文治政権に変遷させて行く。忠義を重んじながらも、政策は合理的であり、時代錯誤の風習はことごとくぶち壊す度量は、まさに改革者であった。末期養子の解禁により藩の断絶は減り、主君への殉死の禁止は有能な人材の損失を防いだ。(家光逝去時も3人の老中・旗本が殉死していた)また玉川上水の大工事を成功させ、江戸庶民の生活用水の供給を劇的に向上させた。
「明暦の大火(1657年)」でのエピソードは有名だ。焼け出された庶民の救済の為、戦時の軍資金として出費を躊躇う先輩を尻目に、幕府の蓄財を一気に吐き出させる。焼け落ちた江戸城天守閣の再建にも「無駄なお飾りだ」と反対し、その資金を町の復興と防災に投入する。他国からの侵略に備え、隅田川に架けていなかった橋を初めて建築し、対岸に大名屋敷を移動させ新しい町を作った。それが現在の「両国橋」と小生が住む本所・向島地区だ。
藩主としても藩政に力を注いだ。飢饉時の社倉制度(備蓄米)、升と秤の統一による年貢の平等化、産子殺しの禁止など庶民の生活向上に努めた。90歳以上の老人に米を支給する制度は、政界初の年金の走りだ。彼の記した「会津家訓15ヶ条」は永く歴代藩主に引き継がれ、二君に使えぬ会津藩は戊辰戦争で敗戦に及んだわけだが、女性蔑視の1項目を除けば、今でも現代日本人の心の琴線に触れる内容だ。
地元の図書館まで足を伸ばし「保科正之展」を覗いて来た。控えめな正之の性格を偲ばせたような小さな展示会に私は大満足だった。「NHK大河ドラマに保科正之!」の署名を受け付けていたので、当然のごとく名前を記してきた。当然、地元製作の冊子も購入
没後350年。現在の東京の基盤を作ったと言っても過言ではない無名の偉人に、もう少し陽が当たればと思う。大河ドラマもいい加減、もう家康じゃないでしょ
翌日のバタバタ旅行の詳細は改めて。
古月【中華・根津】 [江戸グルメ応援歌]
この1ヶ月立て込んでおりました
コロナ罹患から業務復帰後、鹿児島地方裁判所の証言台に立たされるわ、いきなり国税調査が入るわと国家権力に振り回され、てんてこ舞い。プライベートでは、母の一周忌法要をなんとか無事に執り行うことが出来た。気が付けば年の瀬も迫り、仕事はいまだに忙しないが、気分的には落ち着いてきたと思いきや、我が営業所内で社員5名がコロナ発症 オーマイゴッド
先日の谷中の菩提寺で母の一周忌法要を終えた後、親族での会食の席を設けた。ほぼ25年ぶりの再訪の中華料理店なのだが、家族全員が幸せな時間を過ごさせてもらった。母も喜んでくれたに違いない。
『古月』・・・昭和初期の日本家屋を利用した情緒溢れる中華料理専門店だ。併営している「山中旅館」は宿泊可能で中華料理旅館としても有名だ。創業が1990年というので、前回訪問はまだ開業間もない頃だったようだ。料理長である山中シェフはこの間に「薬膳料理」の大家としての地位を築き、店の格式も非常に上がったが、そんな敷居の高さを感じさせない自然な佇まいが心地良い。何せ2歳と4歳の騒がしい孫を連れても優しく受け入れる懐の深さは有難かった。