『TAR/ター』 [上映中飲食禁止]
続けざまに良作に出会い胸躍る
リディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、ドイツの著名なオーケストラで初の女性首席指揮者に任命される。リディアは人並みはずれた才能とプロデュース力で実績を積み上げ、自身の存在をブランド化してきた。しかし、極度の重圧や過剰な自尊心、そして仕掛けられた陰謀によって、彼女が心に抱える闇は深くなっていく。(シネマトゥデイより)
ケイト・ブランシェットに賞賛の拍手を贈る確かに『エブエブ』のミシェエル・ヨーも個性溢れる演技ではあったが、これでアカデミー主演女優賞を取れんのか?と率直に思うのだった。まさに時代の流れに左右されないカンヌとその時代々々を象徴するオスカーとは評価軸が違うのは理解しているのだが...
リディア・ターはベルリンフィルの首席指揮者として世界を股に掛けて活躍している。指揮者にとどまらず、作曲活動や民族音楽研究でも高い評価を得て、今やクラシック音楽界での女帝の地位を築いたと言っても過言ではない。プライベートでは早くからレズビアンを標榜し、楽団のコンサートマスターであるシャロンと彼女の娘のペトラと3人で和やかに暮らしている。今は、マーラー全交響曲録音に向け、最後の第五番の仕上げに余念が無い。
前半は、彼女が築き上げてきたキャリアの源泉を彷彿させるよう描く。類稀な音楽的素養と弛まぬ努力を続ける精神の強さ、人も羨む容姿と巧みな交渉力。男性中心のクラシック界で、彼女は全ての能力を駆使して、自己の才能を世界に広める立場に登り詰めたのである。公開インタビューで司会者を手玉に取り、音楽院では男子学生を論破する。頭脳明晰だが独善的な彼女の性格を垣間見せるシーンだが、長台詞を淡々と人を見下すように話すブランシェットの真骨頂である。そう、リディアは知らぬ間に『裸の女王』になりつつあったのだ。
中盤から暗雲が立ち込める。以前、彼女に師事していたクリスタが自死した情報が入り、心を乱される。リディアと助手のフランチェスカ、クリスタの3人は恋愛感情と師弟関係で強く結ばれていたが、心を病んだクリスタを結局リディアは切り、彼女のキャリアアップも絶ってしまっていたのだ。苛つく女帝に独断専行の行動が目立ち始める。永年、彼女に付き添った副指揮者を解雇し、チェリストのオーディションでは、周りの反対を押し切って無名の美少女オルガを採用してしまう。その頃からリディアは、幻聴・幻覚に悩まされる事になる。
音楽と真摯に向き合う天才の骨太の人間ドラマと思いきや、徐々にサスペンス色が強まり、物語の終焉が予想できない後半に進む。クリスタの遺族からの告訴によるパワハラ疑惑でマスコミに叩かれ、忠実な部下と信じていたフランチェスカにも裏切られたリディアは、現実と狂気の間に堕ち、オルガとの愛の成就に救いを求めて行く。だがリディアの名声に全く興味が無い自由奔放な彼女は振り返る事が無かった。ついにはオーケストラ全員の信頼を失ったリディアは首席指揮者の座を追われる事になる。それでも彼女に眠る音楽への情熱は衰えず、念願であったマーラー5番の演奏会に最後の指揮を執りに向かうのだが...
怒涛の展開、衝撃のラストに胸がすく。指揮棒ひとつでオーケストラを意のままに操るが如く、自分自身の人生をも思い通りに突き進んでいた野心家が、一つの事件を契機に歯車が狂い出し、徐々に闇に落ちて行く様をケイト・ブランシェットが繊細かつ壮絶に演じ切る。現実と幻想を行き来するシーンでの狂気の表情からオルガへの想いに揺れる乙女チックな一面まで、彼女の一挙手一投足に目が離せなくなる。
主役に目を奪われがちだが、共演者は小生のお好みが登場だ。まずリディアの忠実な部下・フランチェスカを演じた傑作「燃える女の肖像」のノエミ・エルマン。今作もレズビアン役だが、彼女の強い目力と柔らかい色香にまたもやられてしまった
そして、リディアの想いが通じない天才チェリストを演じたゾフィー・カウアーだ。彼女は現役のプロの音楽家だが、今作が俳優デビューとは思えないピュアな演技を披露した。当然ながら演奏シーンは吹き替え無しだ。自分の思い通りに振り返らない美女だからこそ尚更燃え上がるリディアの気持ちと私は同じ
名声も地位も愛する人達も全てを失ったリディアが、それでも音楽に懸ける想いを貫き、みすぼらしくも神々しい姿を見せて幕が閉じる。
クラシック音楽の真髄まで垣間見せる演出がストーリーを重厚にし、俳優陣の名演をより際立たせる。指揮法もドイツ語までも徹底して学んだというケイト・ブランシェットの女優魂を観るだけでも価値ある傑作だった。
実はこの作品を観た翌日に市川猿之助事件の報に触れ、なんともいたたまれない気持ちになった。真相は未解明だが、日本に根ざす古き風土が遠因だったと敢えて断言する。LGBTが社会で普通に活躍できる環境が世界の先進国で出来上がる中で、我が国は何ひとつ進んでいない。マスク問題にも通じるが、「多数迎合主義」の国民性は少数派を駆逐する。ごく一部で人気になる有名人はその「異端さ」がもてはやされているに過ぎない。まして伝統文化を自認する閉ざされた世界では「異端」は絶対に受け入れられない。猿之助が、自分がゲイであることを卑下し隠し通さねばならない世界でなければ、市川一家の闇はここまで深くは無かったはずだ。
権力を持った人間が気儘に傍若無人に振る舞い、周囲の人々を傷つけるのは、今も昔もどんな業界でも起きている事だ。原始の時代から人間が集合体で生活すれば上下関係が生まれパワハラは生じるし、無くなる事はない。但し、今の時代に告発されたら、上位の者は謝罪し非を改め、対価を支払うなり刑罰を受ければよい。猿之助の横暴さに被害に遭われた方々もいたかも知れないが、それが一家で恥じて死んでやり直す出来事だったはずが無い。中車の事件と今回は問題の根本が違うのだ。
映画の中のリディアはレズビアンを標榜してもキャリアが傷つく事なく名声を手にする。そしてパワハラを契機に全てを失うが、音楽の世界までが閉ざされる事は無く、彼女のゼロからの挑戦が始まるのである。猿之助の芸の道への再起を望む訳だが、まず我が国自体が変わらなければならないのだ。同性婚、難民受入の問題などマイナリティ対策で政治が動いて初めて国民の視野も変わるのである。独自文化の継承とグローバルな価値観の受入は決して相反するもので無い。G7で国威を示すのも良いが、世界をリードする先進国としての資質をもっと高めなければならない。
旧前田家本邸② [寫眞歳時記]
旧前田家本邸の屋敷地は昭和四十二年、駒場公園として開園された。洋館・和館と広大な緑地を含めて、屋敷全体がほぼ往時の姿のまま残され公園化された珍しい場所である。こんな長閑な日にぴったりの芝庭だ。洋館ともども整備も行き届いているようで気持ちいい洋館から渡り廊下があるが、一般には開放されておらず、洋館を一旦出て和館に向かう。
美しい敷石のアプローチを渡ると唐破風の和館に着く。
当然ながら、先程の洋館とは全く違う印象だ。当日は、茶室・二階・庭園内は非公開だったが、一階の大広間だけでも十分にこの和館の粋を堪能できる。洋館見学に時間を要し過ぎて、こちらのガイド時間に間に合わなかったのが少々残念ではあったが。
和館を出ると、向かいに今までの建物とは雰囲気の異なる横長の古びたビルが佇んでいた。「日本近代文学館」と呼ばれる、日本の文学資料を収集保存する施設だった。前田邸の乗馬用の馬場の跡地に1967年に竣工された。島崎藤村展を開催中だったが、日・月曜日が休館の為に見学できず、入口の脇のテラス部分を利用した喫茶店も見つけたが、こちらも休業だった。昭和中期の香りを感じる建物で、次回はこちらも立ち寄りたい。
旧前田家本邸① [寫眞歳時記]
お気に入りの旧古河邸のバラ園に行くつもりだったが、コロナ明けの休日晴天につき大混雑が明白。直前に穴場狙いで目黒区の洋館に行先変更だ。
◎旧前田家本邸・・・加賀百万石大名の前田家は明治維新後も伯爵を授与され、華族として家勢を保っていた。本郷の大名屋敷は東京帝国大学拡張の為に廃されたが、代替地として目黒・駒場の地が与えられた。海外経験豊富であった16代当主・前田利為(としなり)は、外国からの客人をもてなせるよう迎賓館の機能を持った洋館と日本文化を知らしめる目的での和館のふたつの邸宅を4万坪の敷地内に昭和五年に完成させたのである。
太平洋戦争に出征した利為侯爵は昭和十七年にボルネアにて戦死する。邸宅は、戦中は中島飛行機に渡り、戦後は連合国軍に撤収される。その後紆余曲折を経て、現在は「駒場公園」内の文化財として目黒区と東京都が管理している。入場無料、館内写真撮影可、ボランティアによる説明まであり、非常に良心的な施設だ。予想通り訪問客はまばらで、休日の午後を長閑に愉しんだ。
『EO イーオー』 [上映中飲食禁止]
至高・魅惑の映像詩
田舎町のサッカーの試合に紛れ込んだEOは、勝利の女神に奉られるが、敵サポーター達の報復に巻き込まれて撲殺寸前まで痛め付けられ、動物病院送りとなる。それでも生きながられた彼は、下請けの毛皮工場に運搬係として売られる。毛皮にする為に生捕りしたキツネを流れ作業のように殺す場面に遭遇した彼は、突発的に男を蹴り殺してしまう。そして遂に馬肉専用の運搬車に多くの走れなくなったサラブレッド達と共に乗せられてしまう。万事休すとなるが、運搬車のドライバーが休憩中に殺害される事件が起き、混乱の最中に一人の男に拾われる。男は町外れに大邸宅の実家を持つ司祭であり、里帰りの途中だったのだ。漸く安穏の地を得たEOだったが、広大な敷地の扉が僅かに開いている事に気づく。そして彼は...
好奇心あふれる灰色のロバ・EOは、サーカス団で暮らしていたが、ある日そこから連れ出される。以来放浪の旅を続ける中で、善良な人間だけでなく、悪意を持った人間とも出会うが、何があろうともEOが持ち前の無邪気さを失うことはなかった。(シネマトゥデイより)
最近、レビューしたくなる作品に出会えてなかったのだが...本作は凄い
ロバのロードムービーに心癒され、笑い、そして暗澹たる思いに陥る。一枚一枚の美しい写真が連なったような斬新な映像が、一頭の家畜の生涯と人間社会との関わりを炙り出すポーランドの傑作映画である。
主役はサーカス団に飼われるEOと呼ばれるロバである。相棒のうら若き女性・カサンドラと共に出し物の幕間をパフォーマンスで盛り上げる役回り兼運搬係として穏やかに暮らしていた。
冒頭、EOとカサンドラの絡みが獣姦を連想させ観客の感情を無闇に煽る。美女と家畜の盲目的な情愛を強烈なワンシーンで描く見事なスタートだ。その田舎町の小さなサーカス団にも時代の波が押し寄せ、動物愛護団体の運動により、虐待に繋がる動物の見せ物が禁止となる事態へ。表面だけの時代の風潮に流される愚かな地域社会により、EOはカサンドラから引き離され、競走馬用の厩舎に移される。
同じウマ科の仲間とはいえ、走る芸術と呼ばれるサラブレッドと比べ、自分がいかにひ弱で不恰好な姿をしているかを自覚するEOは劣等感に苛む。客観的なカメラアイとロバの視線からの描写を交互に映し出し、動物の心理までも巧みに表現する演出が光り、この手法が全編を通じて使用される。サラブレッド達の名誉あるトロフィーをことごとく壊してしまったEOは厄介払いとなり、今度は障害児専用のポニー牧場に連れて来られる。新天地に馴染めず孤独な日々を送るEOの元へ、ついにカサンドラが訪ねてくる。EOの誕生日祝いの為に、遠くの町から駆けつけてきたのだ。二人の濃密な再会も束の間、彼女は『人間の彼』の元へと去って行く。彼女を追って牧場を脱走したEOだったが、深い森に迷い込む。初めて触れる大自然と野生動物達に感動すると共に惧れを抱く。ハンターに射殺される狼の姿を目の当たりにしたEOは、人間のいる町を再度目指す。
巧みな映像と音楽に心奪われ、秀逸なドキュメンタリーを淡々と見るようだが、EOが訪れる先々で出会う人間と動物達の『生き様』も濃密に描かれており、まさに重厚なロードムービーとして成立している。
田舎町のサッカーの試合に紛れ込んだEOは、勝利の女神に奉られるが、敵サポーター達の報復に巻き込まれて撲殺寸前まで痛め付けられ、動物病院送りとなる。それでも生きながられた彼は、下請けの毛皮工場に運搬係として売られる。毛皮にする為に生捕りしたキツネを流れ作業のように殺す場面に遭遇した彼は、突発的に男を蹴り殺してしまう。そして遂に馬肉専用の運搬車に多くの走れなくなったサラブレッド達と共に乗せられてしまう。万事休すとなるが、運搬車のドライバーが休憩中に殺害される事件が起き、混乱の最中に一人の男に拾われる。男は町外れに大邸宅の実家を持つ司祭であり、里帰りの途中だったのだ。漸く安穏の地を得たEOだったが、広大な敷地の扉が僅かに開いている事に気づく。そして彼は...
美しい情景も残虐なシーンも動物の目線で淡々と描きながら、人間の罪を問う。多くの伏線や暗喩が用いられ、一見では解読不可能であり、観る者により解釈も分かれるだろう。家畜とは人間の欲望により野生動物から品種改良されたものだ。人間の労働を代替する為に使役を目的としたもの、人間の愛玩の対象になるもの、そして人間の食糧だ。人間の欲望を満たす為に作られた命に軽重は無く、生産と消費が機械的に繰り返されていく。だが、勝手に産み落とされた動物達は、極めて短い「消費期限」でも一瞬の生を謳歌しているのだ。そんな小さな命の大冒険を通して、人間の強欲が成す醜くも麗しき世界を捉えた格別の作品だった。
6頭のロバを使ったと云うEOの擬人化したような名演技と背景を見事に切り取った斬新なカメラアイ。それと見事に溶け込む重厚な音楽。チャプターごとに登場する個性的な俳優陣。(最後のイザベル・ユペールの登場にはビックリ)最近では珍しい3:2の画面がアナログのフィルムカメラを彷彿させ、写真好きには心地よい。久しぶりに胸に強く焼き付いた作品となった。
「土門拳の古寺巡礼」 [上映中飲食禁止]
恵比寿の東京都写真美術館で「土門拳」を観る。
学生時代に私が初めて心震わされた写真集が土門拳の「筑豊の子供たち」だった。それからは図書館に通って彼の作品を網羅した。土門拳は戦前から徹底してリアリズムを追求した報道写真家として活躍し、晩年に脳出血で車椅子生活になるも撮影を続けた昭和写真界の巨匠である。本展は、彼がライフワークとした「古寺巡礼シリーズ」に焦点を当てた企画展である。
彼に触発された学生時代の小生は、バイト代が貯まればペンタックスの一眼レフにトライXを詰めて、日本中の寺社への撮影旅行を繰り返したものだった。今の歳まで続く懲りない趣味の原点が、「土門拳の古寺巡礼」なのである。
「絶対非演出の絶対スナップ」を旨とした土門は、通常の撮影ではライカやニコンSP の35㎜カメラを使用したが、古寺の建築物や仏像には大型カメラで対峙した。半身不随になっても、助手に細かく指示し構図を決め、自らがシャッターを切ったと云う。極力絞り込み長時間露光で撮影した仏像には、一千年前に祈りを唱えた古の人々の息吹までも写し込まれているようだ。ほとんどが何度も眺めた既知の写真達が、書籍からでは到底味わえない大きさに引き伸ばされ、新たな感動を呼び起こしてくれる。
知らぬ間にデジタル慣れし、スマホやPC画面の中の写真しか見なくなったが、フィルムから大伸ばしされた写真に胸を熱く出来るのも昭和爺いの特権かも知れない。
当日は土門拳展の他に、2F「深瀬昌久」3F「TOPコレクション セレンディピティ」の展示会が催されていたので、早足に廻ってみた。
深瀬昌久が妻を日々写した連作や老境の自分を浴槽で撮ったセルフ・ポートレートに、芸術家の独りよがりな優しさと哀しみと狂気をみる。
著名な写真家の作品が並ぶセレンディピティ展で一番惹かれたのが齋藤陽道。障がい者プロレスラーの肩書も持つ聾の写真家だ。初見であったのだが、瑞々しい対称の捉え方と光の扱いが私の心の襞をざわつかせた。
当然、自分の感性によって作品の好き嫌いは出るものだが、今回の写真展は総じて素晴らしかった。写真家の年代も、機材も表現方法もみな違うのだが、「嗚呼、写真表現とは無限なのだな」と改めて感じさせてくれた。東京都写真美術館は、木・金曜日が20時閉館なのでサラリーマンには非常に有難い施設だ。まして写真専門の大規模な美術館は都内でも此処だけである。最近はご無沙汰していたが、もう少し通わねばいかんな。
梅むら【甘味・浅草】 [江戸グルメ応援歌]
知る人ぞ知る甘味の銘店である。
浅草仲見世通りの裏手に在る江戸時代からの老舗「梅園」も有名であり、此処の「あわぜんざい」は私は大好物ではある。だが、ビルに建て代わり全国展開する梅園と違い、昭和のおしるこ屋さんの風情を残した「梅むら」の親子2代に亘る手作りの味には何にも代え難い魅力がある。
観音裏から東に歩き、浅草見番の辺りに来ると人通りもまばらとなり、繁華街の喧騒を忘れさせてくれる。花街の名残りで元々料理屋が多い地域なのだが、最近は洒落たレストランや洋菓子店が次々と出店し、新旧、百花繚乱のグルメの町に変貌し始めている「ディープ浅草」の一角にひっそりと「梅むら」は佇んでいる。
お店の存在は昔から知ってはいたが、入った事は一度も無かった。実は昨年にネット配信の「さぼリーマン甘太郎」と云う尾上松也主演のドラマにハマった。「孤独のグルメ」の甘味版パロディだが、小生好みのスイーツが目白押しその第3話に「梅むら」が登場し、居ても立っても居られなくなり翌週には訪れていた。
コロナ自粛期間中に、40年前のエレキギターを修理してもらったギターリペアショップのすぐ側で、注意しなければ通り過ぎてしまう位の存在感の「梅むら」とご対面だ。観光客で混雑するであろう昼間は避けて、雨まじりの土曜日夕方に訪れたら先客はゼロだった。15名ほどで満席になるであろう狭い店内のカウンターに座り、品書きを一瞥するも当然のように『豆かん』を注文する。あんこ大魔王を自称する小生が敢えてこれを注文したのは、梅むらが「豆かんてん」発祥の店と呼ばれているからだ。
圧倒的な豆の迫力そして赤えんどう豆・寒天・黒蜜のみの究極の潔さロックに例えるならば、ギター・ベース・ドラムスの屈強のトリオ演奏だ。兎に角、豆が美味すぎる生まれて今日まで、あんみつや豆大福に紛れて引き立て役に徹した豆を何万粒食べたかは定かでないが、この豆の食感・旨味は別格だ。先代から引き継がれた丁寧な仕事で炊き上げられたえんどう豆は、黒ダイヤのように輝き、大地と太陽の恵みそのものの味がする。これに母なる海の幸の寒天の冷たい口当たりと豆の自然な甘さを邪魔しないギリギリの糖度の黒蜜が合わさった三位一体の攻撃に小生はイチコロであった。餡子無しで味わえる究極の甘みに出会える銘店だ。と言いながら、二週間後には「あんみつ」もしっかり食したあんこ親父でございました