魅惑の神田須田町を歩く② [寫眞歳時記]
靖国通りと中央通りが合流する須田町交差点に一際風格を備えたビルが聳え立つ。
大阪の繊維卸売業・鷹岡株式会社の東京支店として昭和10年に竣工された5階建のビルだ。明治18年創業時の国産羅紗開発以来、現在も紳士服地販売をアジア圏中心に展開している。御影石とスクラッチタイルを組み合わせた外壁、浮き出しの社名看板、正面玄関上部のモニュメント等々、昭和モダニズムに溢れている。
『まつや』のあるブロックから中央通りを渡り山手線のガードをくぐる。不可思議な自販機置き場を過ぎ、柳原通りに出ると都内でも有名な看板建築に出会える。
『岡昌裏地ボタン店』は明治30年に古着屋でスタートし、戦後に裏地やボタンを扱う専門店となった。昭和3年に再建された店舗と共に商売も現役続行中である。店内を覗けば、ほぼ間違いなく店主と思しき白髪の男性が座っているはずだ。銅板張りの錆びた藍色が何とも味わい深く哀愁漂う。
明治20年創業の『海老原商店』も服飾問屋であり、岡昌と同じ昭和3年に現店舗が完成した。設計者の粋なセンスを感じさせる和洋折衷の外観は、当時のハイカラ文化から生まれた日本デザインの秀逸さを物語る。現在はアート・スペースとして若き芸術家に解放され、日時によって内部も見学可能だ。本業の継続はならずとも、現オーナーが引き継いだ貴重な資産の改修・保存に力を入れ、新しい命を建物に吹き込んだ。この日は、正面玄関で「集約されないパフォーマンス」という前衛ダンスが上演されていた。
明治後期から戦後までこの地域一帯は繊維問屋が軒を連ね、行き交う人々の波が途切れる事が無かったと云う。今もなお残る数少ない建物達が、往時の喧騒を想い起こしてくれる。柳原通りの岡昌の斜向かいには小さな社があった。室町時代に江戸城近くで創建し1659年に此の地に移された「柳森神社」だ。此処には徳川綱吉の生母・桂昌院が建てた福寿神が祀られている。八百屋の娘でありながら3代将軍家光に見初められ次期将軍の母となった「お玉」が「他を抜いて輿に乗った」ことが「玉の輿」の語源となり、それにあやかり「たぬき」が崇められ始めたと云う。江戸期から多くの参拝者が御利益祈願にこの狸様に訪れたのだ。お稲荷様のお使いである狐や神前を守護する狛犬を奉るのは知るが、狸を祀るのは珍しいかもしれない。